『オリンピック秘史 120年の覇権と利権』
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オサマ・ビンラディンはサッカーによって生まれる熱狂に驚嘆し、自分でもそれを体験した。一九九四年にロンドンに滞在し、何度もアーセナルの試合を観戦し、クラブのギフトショップで息子のためにグッズを購入したのである(14)。スポーツによって生まれる熱狂は、やがてさまざまな方向に向けられる。過激派から保守派まで、また崇拝から背信まで。 近代オリンピックの黎明期には、スポーツ競技に加えて芸術競技も行なわれ、優れた技能の持ち主にメダルが贈られていた。「ムーサの五種競技」すなわち建築、文学、音楽、絵画、彫刻の五種目がスポーツ種目の合間に競われたのである。それには古代ギリシャ人の精神を現代によみがえらせる狙いがあった。古代ギリシャ人は、オリンピックにおいて身体の能力と芸術の能力とを融合させ、それによって神々を称えた(1)。 愛国的責任感、男らしさ、運動を通じた心身の美、チームワーク、規律、自己犠牲、さらに「軟弱さ、非英国的なもの、極端な知性主義の追放」によって特徴づけられる。
オリンピズム≒教会、教義、礼拝を伴う宗教
人種問題に関してクーベルタンは、ヨーロッパ中心主義的な人種主義に傾いてはいたものの、二、三のリベラルな思想から影響を受けていたために、それほどこだわっていたわけではなかった。彼は「野蛮人」と「文明人」とを区別していた。そして、スポーツは両者の溝を狭めるこの上ない手段であると考えていた。彼はつぎのように述べた。「スポーツは運動を意味する。そして、運動が身体にどのような影響をおよぼすかは太古から明らかである。筋力と敏捷性は野蛮人にも文明人にも大いに称賛される。いずれも訓練と実践によって身につけられる。道徳的秩序に調和をもたらせる(53)」
1896年、第一回。アテネオリンピック。
労働者オリンピック
ブルジョワオリンピック
大恐慌中、アメリカでは、オリンピックのために公費が投じられ、市民からは反発。
反対する人が多い中、大会を開催。広報担当が報道機関を巧みに操作し、運営委員会はノーベル平和賞の候補にもなった。 初めのうち、アドルフ・ヒトラーはオリンピックにほとんど関心を示さなかった。一九三一年に一九三六年のオリンピックの開催権をベルリンが獲得したとき、ドイツの政権を掌握していたのは中道の民主連合だった。一九三二年の時点でも、ヒトラーは近代オリンピックのことを「フリーメイソンとユダヤ人がアーリア民族に対抗して計画した陰謀」などといっていた(78)。だが宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスから、オリンピックの開催は国威発揚の絶好の機会だといって説得された。著書『わが闘争』で、「肉体を鋼鉄のように鍛える」といってボクシングを称賛したヒトラーだったが、スポーツファンとは程遠かった(79)。ところが、一九三三年一月に首相に就任してからオリンピックを支持するようになり、開催のために政府基金からまとまった金額を投入することにした(80)。ヒトラーとゲッベルスはオリンピックを利用してドイツの優秀さを誇示しようとしたのである。 テレビでの生中継
ベートーヴェン 歓喜の歌
第3章 冷戦時代のオリンピック
政治と商業から、切り離されるべきアマチュアのための大会というコンセプトがあったが、その理念が侵され始めている。
1956年 メルボルンオリンピック
ハンガリーはソ連を破り、そのまま勝ち進んで金メダルを獲得した。四五人のハンガリー人選手は帰国せず、西側への政治亡命を申請した(64)。
「二つの中国」問題
南アフリカは、東京オリンピック不参加。
選手団11人が犠牲となった五輪史上最悪の悲劇は1972年ミュンヘン五輪の会期中に起きた。9月5日、パレスチナのゲリラ集団が選手村のイスラエル宿舎を襲撃、2人を殺害するとともに選手らを人質に収監中のパレスチナ人の解放を求めた。
大会は中止も取り沙汰されたが、国際オリンピック委員会(IOC)のブランデージ会長は「中止はテロに屈服することにつながる」と主張。IOCは1日ずつ競技実施を繰り下げた上での大会続行を決定した。
ホスト国は、テロ防止のセキュリティ対策を厳重に行うようになった。
オリンピックと商業が建前上切り離されていた1970年ごろまでは、オリンピックを受け入れても、費用の負担が大きかった。
コロラドの活動家とその仲間たちは、資金の差をくつがえし、オリンピック開催を阻止することに成功した。IOCは開催都市の変更を余儀なくされ、一九七六年冬季オリンピックはインスブルックで行なわれることになった。《スポーツ・イラストレイテッド》紙の結論によれば、コロラドでの反対運動および住民投票は、「オリンピック自体、あるいはスポーツに反対するものではなかった。むしろ、数百万ドルにのぼる血税を投入して競技場を建設することに反対するものであって」、「当該地域における野生動物保護志向に合致する結果をもたらした(27)」。デンバーでの反対運動は、オリンピズムの表面を覆うプレートを動かす一助になった。そして、モントリオール大会の大失敗もそれに貢献することになった。
結局、モントリオール大会は経費が一五億ドルにのぼり、過去のどの大会よりも金がかかった。カナダの人びとには返済に三〇年もかかる借金が残された。メイン会場のオリンピック・スタジアム──大会の閉幕後ずいぶんたってから完成に至った──は「ビッグ・オー(訳注/BigOwe、大きな借金の意)」のあだ名で呼ばれ、笑い草にされた(34)。 キャドバリー・シュウェップス
祝賀資本主義とは、オリンピックなどの祝賀的なイベントに乗じて、公共部門の助成によって、民間部門における資本の蓄積が加速する原理である。ボイコフはこの概念を、ナオミ・クライン(Naomi Klein, 2007)の惨事便乗型資本主義(disaster capitalism)から着想したという。